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2008年4月8日

館山市における戦争遺跡の保存と活用を視察調査


2008,04,08, Tuesday

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日本共産党川崎市議団の斉藤隆議員、宮原春夫議員、石川建二議員らが4月8日、館山市(人口5万、一般会計規模157億円)の戦争遺跡の保存と活用の取り組みについて調査のため同市役所と遺跡現地を訪問・視察しました。
訪問団を代表して斉藤議員が「旧陸軍登戸研究所跡を残す取り組みに活かすため、館山市の戦争遺跡の保存活用の努力を学びたい」と挨拶。
市役所では教育委員会生涯学習課主査より、東京湾要塞、館山海軍航空隊、洲ノ埼海軍航空隊、館山海軍砲術学校、横須賀防備隊関係の遺跡の現状と調査状況、これら戦争遺跡の保存と活用に関する取り組みの経過と現状、将来の課題について説明を受け、質疑しました。また、杉江主査の案内により、館山市指定史跡である館山海軍航空隊赤山地下壕跡の内部を視察しました。

生涯学習課主査の説明と質疑

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(1)遺跡調査の結果
館山市一帯に広がる戦争遺跡(全47カ所)の概観は、現海上自衛隊航空隊基地(隊員約5000人)周辺の館山海軍航空隊・洲ノ埼海軍航空隊、洲崎を中心とする東京湾要塞関係、相浜側の館山海軍砲術学校などに分布しており、原剛防衛庁防衛研究所調査員(当時)らの協力を得て遺跡の正確な名簿(名称、場所、竣工日付)をつくることからはじめた。昭和13年までの資料は現存しているが、以後の資料が残されていないなどの制約があり、たとえば赤山地下壕は1944年(昭和19年)頃の竣工としかわからないものもある。
東京湾要塞は8基あり、明治以降、東京湾に外国艦船をいれないという防衛上の理由から砲台が設置された。州崎第1・2砲台は、しかし、完成時(昭和初期)には沿岸要塞の必要性が失われつつあったことなどから、実践では一度も使用されなかった。州崎第1砲台(1932年竣工)は1922年(大正11年)の軍縮条約で廃艦とされた巡洋艦「生駒」の主砲(30cmカノン2門)を据え付けたもので、深さ13.8mの砲塔砲台基礎には3.5m掩護厚の鉄筋コンクリート、旋回・俯仰・発射用にディーゼル機関2機などを備えていた。戦後米軍が一部破壊したが、跡地が別荘地として開発されており、残すことを開発業者にお願いしている。(しっかりとした根拠法令が無いため協力のお願いにとどまっている。)第2砲台(1927年竣工)は榴弾砲4基で、砲台跡や火薬庫跡を壊すことができずその上に民家が建っている。
館山海軍航空隊跡(1930年設置、館空)は15遺跡が確認されている。館空は海軍5番目の実戦部隊で日中戦争当時は長崎県大村から渡洋爆撃にも参加している。当時の建物が現在も海上自衛隊館山航空基地司令部として使用されている。赤山地下壕は全長約1.6km。計画では3000人収容、1945年(昭和20年)初め頃の計画図には自力発電所、応急治療所(病院的施設?)、工作科格納庫(備品倉庫?)などの名称があるが対応位置の詳細がわからない。現在、安全調査や入出管理など対策をとって壕内公開を実現している。防衛庁(当時)からの補助金で立てられた「豊津ホール」がすぐ横にあり管理人を常駐できたこと、北側半分の土地が海軍省から市に払い下げられたりして、やりやすかった。いつ建設されたかの記録がなく、兵隊が建設に従事したとの10数人の証言があり1944年(昭和19年)9・10月頃から1945年(20年)8月までの1年足らずの間につくられたと認定した。壕の中で事務を行っていたとの証言、戦後壕中で多数のベットを見たとの証言がある。水上機基地は現在、極洋船舶工業(株)が使用している。その他、兵隊や市民が掘った700~800の防空壕があるが、把握しきれずリストに含まれていない。兵隊が山中に疎開していたことがわかる。
洲ノ埼海軍航空隊関連(1943年開隊)は6遺跡。航空機整備などの教育機関。同戦闘指揮所跡(地下壕)は福祉法人の敷地内にあり安全確保もできていないため一般公開していない。同射撃場跡も共有地になっており連絡取れない人もおり、一般開放できていない。
館山海軍砲術学校(1941年開校)遺跡は6点。山口栄彦著「消えた砲台」(注)や真継不二夫写真集「海軍予備学生」で当時の学校の様子などが生々しく記録されている。パラシュート降下訓練用のプールや、化学兵器実験施設跡とおもわれるものもある。(注;何もない海村に突如1万5000人もの軍事施設がつくられ終戦とともに消えていった様子を、当時子どもであった市民からみた角度で詳しく証言している。)
横須賀防備隊関係は3遺跡、第59震洋隊関係は2遺跡を認定した。

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(2)戦争遺跡の保存と活用について
呉や横須賀のような軍事拠点ではない地に陸海軍の施設が多数あったのは珍しい存在だった。1995年、国は広島の原爆ドームを世界遺産に登録するために文化財保護法を改定、戦跡も遺跡に加える、おおむね50年を経過したものも対象とする、と史跡基準を改定したことが転機になった。
それまでは戦跡を残す根拠法令が無く保存の取り組みにためらいがあった。また関係者が現存しており「なぜ行政がかかわるのか」との声もあった。一方、市博物館企画展で洲ノ埼海軍航空隊跡の紹介、山口栄彦著「消えた砲台」(東銀座出版社)によるまとまった証言の公開、市民運動による調査・保存要求の取り組みなどもされてきた。
1995年、「戦後50年平和を考えるつどい実行委員会」(愛沢伸雄氏ら県立高校教諭が中心)のフィールドワークや講座、企画展、市グラフ誌による特集などを機運に、1997~98年、館山市文化財審議会が市内戦争遺跡の所在確認調査を実施。1999年に館山市文化財審議会調査に関する報告書が出され、建造物指定や史跡指定には消極的ながらも、戦争遺跡を地域の歴史的遺産として評価できるよう継続調査が必要との意見を具申した。
2002年、館山市と(財)地方自治研究機構による「戦争遺跡共同調査研究事業」を行い、市内に現存する戦争遺跡の調査と評価、遺跡を活用した平和・学習拠点の形成のあり方、市民の学習及び観光・交流ニーズに対応した平和・学習拠点を核としたまちづくりのあり方をエコミュージアム的に「地域まるごとオープンエアミュージアム 館山歴史公園都市」構想としてまとめた。これは千葉県が自然学習特区を南房総に指定したこともあり、教育委員会、商工観光課、都市計画課が共同で組んでとりくんだ事業で、風が吹いてもぶれないよう根っこをしっかりしようと、平和事業を前面に出し、その延長上に観光・交流を置く内容となった。原剛先生(前出)、日本観光協会などに参加していただいた。
2004年、赤山地下壕を一般公開した。現在、NPO南房総文化財・戦跡保存活用フォーラムの愛沢伸雄さんなどは年間3000人を案内している。
課題として、点の公開をしたが、線・面へと広げていくことがこれから。オープンしたら30件の苦情が寄せられた。なぜ負の遺産に税金を使うのかとか戦争を思いださせないでくれとの意見、戦争遺跡に対する個人の価値観の相違、戦跡に対する評価の違いなど。また戦跡所有の問題、保存コストの問題もある。これらには客観的に歴史事実を後世につたえる事業であり、「歴史遺産」として評価して「館山市史跡」として指定しすることで理解を求めている。また歴史遺産としての認識の共有も課題。改正文化財保護法の登録記念物制度(緩やかな保存処置)も弾みになるかと期待している。
以上約1時間半にわたり、PowerPointを使い説明された。

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(3)質疑
史跡調査のきっかけは?
1995年(平成7年)当時、市民レベルの調査結果しかなかった。これには疑問点もあった。これに対して、行政としてきちんとした調査した上で発言しないと市民の理解・納得が得られないということで、行った。また、1955年(昭和30年)~2001年(平成13年)にかけて赤山地下壕でキノコ栽培していた人がいて、大量のゴミ(TV、自転車、洗濯機他)なども持ち込まれていた。このころ既に数千人が地下壕を見学していた。これはなんとかしないといけないということでおこなった。
取り組みへの市民意見は?
否定する人は少なかった。空襲(東京空爆の帰り道の弾薬破棄目的?)で27人の死亡が確認されているが、広島や沖縄のような悲劇がなかったためと推測する。
保存のコストは?
赤山地下壕は、土日祝日公開の入出管理委託、安全点検や排水ポンプなどの費用がかかっている。
平和学習への活用状況は?
学校の先生が赤山地下壕を積極的に活用しようとしている。総合学習などで。小学生が戦争遺跡の調査にNPOと協力して行うなど、NPOの活動が市民認知に貢献している。教育委員会は小学校に出前講座をやっている。赤山地下壕は年間1万数千人が訪問している。
文化財指定をすすめた理由は?
国や県がやっていないことを館山市がやるまでもない、こんなものは文化財でない、などの考え方もあったが、市民運動やマスコミ報道もあり、これではよくないということで共同事業やろうということにふみきった。

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赤山地下壕の視察

生涯学習課主査の案内で海上自衛隊館山航空基地の南側に標高60mの質凝灰岩質砂岩などからできている通商赤山に掘られた地下壕の中を視察した。ツルハシ、ダイナマイト、トロッコを使い人力で掘削された。三井三池炭鉱争議にかかわった人が掘ったとの証言もある。壕内壁面にはつるはしで掘削した跡がのこっていた。長期住人であった人物が使用していた五右衛門風呂も歴史の一部として残されていた。公開されていないところは柵などで入坑が制限されていた。部屋と思われる空間、通路が迷路のようにつながっている。3層構造で3000人収容を目標として、2階に上がる階段通路も掘られていた。